受け入れること。

 

 時間が経つのは早いものですね。何の変哲もない日が容易に忘れることの出来ない日に変わり、楽しみにしていた日がこういった形で会う日になるなんて、想像すら出来ませんでした。人生何があるかわからないと言いますが、こういった驚きは今後も願い下げです。

 とはいえ、今はもう受け入れるべき時期に来ているのかもしれません。公式発表で送る会の詳細発表がありました。以下原文そのままです。

 

2017-02-20

 2/25(土)松野莉奈を送る会のお知らせ

 

私立恵比寿中学/松野莉奈 儀 平成29年2月8日(享年18歳)
永眠致しました
松野莉奈を送る会を下記の通り執り行います
故人のご冥福をお祈りし謹んでお知らせ申し上げます

 

松野莉奈を送る会
日にち 2017年2月25日(土)
受付時間 12:00~16:00

場所 パシフィコ横浜 国立大ホール
         海側からご入場ください
    (神奈川県横浜市西区みなとみらい1丁目1-1)

 

松野莉奈を送る会にお越しいただける方は受付時間内にお越しくださいますようお願い申し上げます
当日は献花台を用意しております
献花は受付いたしますが スタンド花・アレンジ花・ご香典・ご供物・ご弔電などは お控えいただき お気持ちだけ頂戴いたします
告別式ではございませんので当日はご自身のお好きな服装でお越しください
当日 報道取材が来場される可能性がございますことをご理解賜りますようお願い申し上げます
会場へのお問い合わせはご遠慮ください

 

 このお知らせを見たときの感覚としては、夢を見ているような感覚。というのが一番しっくり来る表現であったと思います。何度も何度も真実を伝えられ、少しずつ世の中も進んで行っていますが、まだまだ現実味というものを感じるには弱すぎたのです。

 私にとっては、黒虎のメールで現実として受け止められるような気がしてます。会員向けの言葉ですので、あまり公にすることは好ましくないかもしれませんが、その愛を少しでも知っていただきたいと思います。問題あれば消します。

 

日頃より私立恵比寿中学を応援していただき ありがとうございます

松野莉奈におきましては先日告別式がしめやかに執り行われました
生前から応援していただきました皆様にも松野を見送っていただきたく「松野莉奈を送る会」を執り行います

当日は献花台を用意しております
献花は受付いたしますが スタンド花・アレンジ花・ご香典・ご供物・ご弔電などは お控えいただき お気持ちだけ頂戴いたします

松野莉奈を送る会
日にち 2017年2月25日(土)
受付時間 12:00~16:00

場所
パシフィコ横浜 国立大ホール
海側からご入場ください
(神奈川県横浜市西区みなとみらい1丁目1-1)

告別式ではございませんので当日はご自身のお好きな服装でお越しください

松野莉奈を送る会にお越しいただける方は受付時間内にお越しくださいますようお願い申し上げます
当日 報道取材が来場される可能性がございますことをご理解賜りますようお願い申し上げます

遠方にお住まいの方や様々な事情でお越しいただけない皆様は お気持ちを送っていただけますと幸いです
きっとその思いは松野にも届きます

松野莉奈の旅立ちを皆様の笑顔で見送っていただけましたら幸いです
よろしくお願い申し上げます

 

 非現実的なお知らせとして見てきましたが、「告別式」という身近にも体験したことのある言葉が出てくると、遠い世界の話であったり、夢の中の話ではなく、現実であることをひしひしと感じました。そして、こういった言い方しか出来なくて大変申し訳ないのですが、そのお顔を拝見出来ることは未来永劫なくなってしまったという現実を知ることになりました。彼女のことを思い起こすことはいつでも出来ますし、その姿を見返すことだって出来ますが、彼女が目の前に居て、何か話をしたり、動いていたり、表情を見せてくれたりすることはもうないということになります。受け入れ難いことであったとしても、それが現実なのでしょう。彼女から何か行動を起こすことは、今後一切ありません。行動を起こすことの出来るのは私達だけです。だから松野さんには会いに行こうとしなければ会えないわけですが、こうしてその場を設けていただいたことに、感謝をしております。そして、彼女を愛し、大切に思う人の中には諸般の事情により会いに来れないことを憂い、こうした言葉を贈る優しさにも感謝しております。その優しい気持ちこそが、故人の旅立ちをより良いものにすると感じました。最後の一文は、まさにその通りですね。笑顔で送り出せれば、故人も安心して旅立つことが出来ますね。

 

 今日、こうしたお知らせを通して、松野莉奈さんが新たに旅立たれたことをようやく現実として受け入れることになりましたが、無論それが彼女の身に起こったことを許容出来たというわけではありません。

 要不要論で語ることは、命の軽視だと言われてしまいますが、事実彼女が生きていることの方が何倍も有用であったとは何度も何度も感じました。私はいつものように、思わずそう表現してしまうようにいつものように朝目覚め、出勤の準備をしますが、そんな私よりもずっと多くの人に必要とされていて、歓迎されていたはずの彼女の方が先に亡くなってしまうとは、不条理としか言いようのない事実でした。

 彼女の命を奪った原因としては不整脈であると公式に発表がされましたが、これがマスコミの格好のネタにされてしまわないかというのは、しばしの間やきもきして見ていました。不整脈はストレスによっても起きる可能性があるもので、私も社会人になって悩みに悩み、心を壊してしまった後に不整脈を抱えるようになりましたが、それとまったく同じように捉えて、エビ中の活動で酷使された結果であると言われてしまうのではないかと恐れました。いつだってそうですが、彼らはどんな話題でも面白可笑しく扱おうとするし、センセーショナルな話題であれば何だっていいのですから、エビ中の姿勢などお構いなしに批判を加えるのではないかと思ったのです。私達ファミリーは、エビ中のエンターテインメントとしての側面を多く見てきていますが、少なからず価値観や考え方にも触れてきていますから、エビ中はメンバーを最優先に考えるグループであり、体調が悪ければ自重させていたし、学業や行事があれば優先させていたし、メンバーのキャリアこそ第一に優先したマネジメントがされていたことを知っていたはずです。そして松野莉奈さんはそんなエビ中を「辞めたいと思ったことは一度もない」と言い、なぜエビ中を続けるのかと問われれば「楽しいから」と答えるほど愛していたのだから、そういった批判は故人の望まないことだと思っていました。

 少し前に記事にしましたが、私がエビ中にハマったのは、丁度2年ほど前のことでしたが、それからというものの、毎朝の目覚ましにはエビ中の曲をかけていて、エビ中の曲を聴かない日はなかったと言えるほど毎日毎日聴いていました。それが急に聴けなくなってしまいました。その日ではなく、3日ほど経ったときに急に聴けなくなりました。エモーショナルな歌詞が多い曲はもちろんですが、ノリが良くて元気のある曲ですら、聴いていると悲しくなってしまいました。この曲はみんなが楽しそうに目一杯やっていたな、とかあの時こんなことがあったな、とか思い起こす度に戻らない時間にやるせなさを感じてしまいました。そして、いつもそうやって落ち込んでいた時に力を貰っていたのがエビ中だったので、こうしたときに元気を出す術を知らないことにも驚きました。それほどまでに私は心の比重を傾けていたのかもしれませんね。

 りななんはとても無邪気で純粋な「見た目は大人、中身は子供」それが大きな魅了でしたが、ふとした時に見せる表情がとても美しくて、よく見惚れていました。毎年ファミえんでは年末の大学芸会が発表されることが恒例になっていましたが、発表後に崩れ落ちたり泣いたり抱き合ったりするメンバーが居る中、ただじっと垂れ幕に書かれている文字を見つめるりななんは素敵でした。一見不安を感じているような、でも覚悟をもう決めているような表情にはいつも目を奪われていました。そしてその後は必ず笑ってメンバーと話す姿は、その印象を強く残してくれています。

 先日、エビヲタだと明かしている数少ない友人と会う機会があったのですが、りななんが亡くなった話になったときに「その日の午後はショックで仕事にならなかった。やっと受け止められてきている。」と話すと笑われたのは、非常にショックで悲しいことでした。普段は思いやりもあって優しい人なのですが、きっと他人でしかないアイドルの訃報に心奪われていたことが滑稽だったのでしょう。でも、それだけエビ中とメンバーへの思いは強いのです。私にとっては他人ではない、大切な人なのです。

 時間が経つと、松野莉奈さんと関わってきた方のお話が多く出てきて、朝まで悩みを聞いてあげたり、自分の仕事で行った先でメンバーの売り込みをしたりととってもメンバー想いなエピソードが出てきたり、無邪気な松野さんを紹介してくれたりして、りななんの魅力が世の中に広まることは嬉しくあったのですが、もっと前から沢山出して欲しかったと思いました。松野莉奈って子はこんなに綺麗で可愛いのに面白くて無邪気で思いやりがあって…とっても素敵な子なんだよ!ってみんなにもっと早く知って欲しかったです。今どんな情報が出てきたとしても、りななんの将来には全く繋がらないことが悔しいです。

 思い起こすのは、いつも美しかったり楽しかったことばかりですが、そういったものがもう過去のことだけに留まってしまい、これからは新しいものがないということが私には非常に耐えがたいことです。現実であることは頭だけではなく、心でもわかるようにはなりましたが、それだから納得、とは到底ならないのかもしれません。

 メンバーは私達のようなファミリーとは立場が大きく異なるため、その衝撃も、受け止め方だって大きく違うはずです。誤解を恐れずに言えば、私の立場では叶えられない故人の顔を見ることが出来たのは、メンバーにとって良かったと思います。話で聞くだけではいつまでも信じられず、進むことなど出来ないですから、現実を見せられて、目一杯泣いて、心晴れやかに笑って故人に思いを馳せることが出来て、新たに進み出せると思います。長く、密接な付き合いのある仲間、家族同然であったからこそその痛みは非常に大きいと思います。そして故人と対面することで、彼女をこれまでとは違う形で受け入れ、進んだ者とまだ居る者との務めを知り、この世で生きる力を貰えるのであるならば、掛け替えのないものを貰ったことに気が付くということで、故人も報われるのだと思います。悼み、弔うということは、その人を思うこと、知ること、そして新たな関係性に気が付くこと、進んで行くこと、そういった意味があると思います。

 私はメンバーのような体験が出来ないので、本当の意味で完全に受け入れることは、恐らくないのではないかと思っています。受け入れたというのも、もう会えない、もう見れないということを受け入れられただけなのかもしれません。でもどうであれ、松野さんを思う気持ちさえあれば、本人も喜んでくれるのではないかな、と詳細を見ながら考えました。

 

 結局何が言いたいかわからないですね。ぐだぐだ書いて申し訳ないです。こうして色々書いていれば何か見える気がするので、しばらくこんな感じになりそうです。